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退屈とストロベリー

表記ゆれは感情のあらわれ

一分の一の自分でぶつかりたい

弱くなるのは簡単だ。どうして自分という生き物はこんなに弱いのか、そんなに弱い人間だとは思わなかった。もう慣れたから動揺はしないけど、まだちょっと。

思い返せば小学校中学校であったできごと(高校は平和だった)、大きなことも小さなことも、どれも今ジャブのように効いてる。あのとき言い返せなかったことが今になって思い出される。むかつく。もう当人は覚えてないはず。なおさらむかつく。
耐えてればその場はやり過ごせるけど、あとからダメージがじわじわとやってくる。戻れないし、より後悔が募る。殺したいくらいの傷なのに相手は覚えてない。最悪。だからこそ殺したいと思う。どういう殺意か分からないまま死んでいったら、それはそれは最高の復讐だろうなと思う。まあそのときに言い返すなんて選択肢はなかったけど。空気が悪くなって居心地も悪くなるよりは耐えてるほうがまし。耐えられたし。耐えられたから、言い返すなんて選択肢もなかったし保健室登校で腫れものの烙印を押されることも選ばなかった。いま同じ環境に放り込まれたら、間違いなく保健室登校にする。それが心もプライドも全部ひっくるめて最小限の傷で済むって知ってるから。どうせ残る後悔なら抵抗して残る後悔のほうがいい。あれが傷つけられるってことなんだって知らなかったよ。
ひと括りにするのはおかしいと思う。でも自分のことを考えるなら、自分かそれ以外でしか考えられないと思う。それ以外のなかでも助けてくれる人と助けてくれない人で分けられるかもしれないけど。攻撃してくる人っていうのもあるね。攻撃してくる人は特に、知らない人知ってる人、意図のあるなしは関係ない。

辛抱強くないから、辛抱強ければ幸せなのかが分からない。昔と変わらず辛抱強くて耐えられる人間のままだったらそうだったのかもしれない。でもそれが若さ特有の辛抱強さだったとしたら、これから老いていくばかりだから失われていくしかない。耐えなきゃいけないことは増えていく。ずっとずっと辛抱強いとしても、後悔も増えていく。辛抱強いことは幸せなんだろうか。今の若者は辛抱が足りないと嘆く高齢者は幸せなんだろうか。辛抱したことで後悔が生まれたから分からない。